葬式の思い出
今、「おくりびと」なる映画が脚光を浴びているが、私はまだ観た事がない。連日、マスコミを賑わしてはいるが、私としては、今のところ興味がない。思う事は、今まで思い切り身近な人の葬式の経験がないという事なのだ。
振り返ると、小学校や中学校の頃、友人との会話の中に「ジーちゃん、バーちゃん」なる単語が出て来るが、私はここでも異彩を放つ家庭環境だったのだ。@両親の祖父母が全て健在である事、つまりジーちゃん×2、バーちゃん×2で計4人なのだ。Aどちらとも同居してないのに、話題になる⇒毎日、母方の祖父母宅で夕食を食べていたから。B父は養子ではないのに、私の会話に出てくる祖父母は99%母方の祖父母なので、名字が違う事。Cその母方の名字が、当時の我が家の屋号だったので、友人達には、理解してもらえなかった・・・友人が、私の家に電話してくると「はい、○○シマ(屋号)です。」とでるので、○○木(私の名字)と違う為、混乱させてしまった事。電話番号、間違えちゃった・・・みたいな事は多々あったらしい。
父方の祖父母は。ここ10年くらいの間に、亡くなったのだが、大変長生きで、祖父は97歳、祖母は91歳まで、生きたらしい。愛知県の北海道と言われる地方で、太陽と共に生きる様な生活を送っていたのが、長生きの理由であろう。
今回は、珍しく、この父方の祖父母の話である。正直、どちらが亡くなった時も感情はなかった・・・、と、書くと、私ってホントに冷たい人のようだが、自らをフォローすると「だって、ほとんど会った事ないんだもん。」なのだ。
だいたい祖父母は子供(つまり、父の兄弟)が9人もいて、しかも孫がおそらく21人いるのだ。そして、父は9人中7番目であり、私は孫中おそらく17〜18番目あたりなのだ。
そもそも、父は兄弟付き合いは、あまりしないし、父の在所まで県内なのに、車で2時間30分もかかるし、父は車の運転が苦手でキライなので、ほとんど帰らなかったのだ。小学校の低学年頃に、夏休みに父の在所に行った事はあるが、あまりにも何もなく、川で石を投げる事くらいしかやる事はないのだ。今なら、静けさを楽しむとか色々できるが、小学生にそんな粋な事できっこない。在所も床屋だが、何年も前の週刊誌が置いてあるだけだし、WCは家と独立した場所にある上に、ボットンである。そんな訳で1時間もすれば「帰りたい。」である。
在所は、このように避暑にでも行くなら適当なようだが、生活するとなると不便極まりない。長兄が蒲郡の隣町に家を建てたのをきっかけに、祖父母は晩年はこちらで過ごしたが、まったくに近い状態で交流は無かった。ただ、入院したと聞くと、当時私は免許を持つ年になっていたので、お見舞いに行ったが、全然、孫だと分かってもらえず、20分くらいしかいない間に、何回私の名前を言っても、違う孫と間違える始末である。高齢なので、仕方ないとも言えるが、これでは情もわかないものであろう。
そんな訳で疎遠になっていたが、さすがに隣町に住んでて、葬式に行かない訳にはいかないので、礼服を着てノコノコ出かけて行ったが、やる事もないので、お茶を飲んで、饅頭やせんべいを食べてばかりいた。歩きの距離ならビールでも飲みたいくらいであった。私が動かなくても、動いてくれる内孫はいっぱいいるので、こういう時は実に気楽である。私はまったくの戦力外なのだ。手もださなければ、口もださない、ただの木偶の棒であったが、まったく悔いはない。
そして、本葬の時あるが、喪主の相方である長兄の奥さん(つまり叔母)が、和尚さんが入ってくる寸前に言ったセリフが「ここのオシさん(注:田舎の人は、和尚さんの事をこう言います。)は、ウチのオジィと一緒にあの世へ逝っちまいそうなヤツだぞん。」だったので、私は不謹慎な叔母さんだなぁ、と内心思ったが、和尚さんの登場で、そのセリフのまんまの人がヨロヨロと仏前に立って挨拶したので、私は笑い転げそうになってしまった。
どう、表現したらよいか難しいが、昔、研ナオコがコントで「ナオコバァちゃん」の仮装をしていたが、あんな感じの歩き方であった。「プーっ」と笑うわけにも行かないので、必死に下を見てこらえていた、呼吸もままならない状態である。あんな苦しい状況は初めてであった。よく見ると、私の母も、私と似たような状態であった。彼女も、祖父母とは、ほとんど縁の無い女だったのだ。
そして、厳しい状況はさらに私を襲った。喪主である長兄夫婦が、一番先に仏前に立ち、挨拶するのだが、お参りしてお辞儀する時に、叔母のスカートの中から、ズボン下がズリ落ちたのだ。私の頭は、下を向くと言うより、かなりの鋭角で落ち込んだ。もちろん笑いをゴマかす為である。苦しい・・・息も出来ない。体の色んなトコロをチミくって気を紛らした。もはや、葬式どころではない。別の意味の涙がでそうだ。皆、気が付かないのだろうか??
それでも、葬式は進行されて行く、今度は前から順に、お参りするのだ。その時、私にトドメが刺された。2度の攻撃に傾いた私の頭の視界はとても狭い。参列者の足元くらいしか見えないのだが、なんと、その足元ですら、私に攻撃をしかけてくるのだ。その人の足元は、くるぶしが丸見えになるほどズボンが短くて、あきらかなアンバランスである。
もはや、説明不要である。誰も私の見方はいない。呼吸を止め、思考を止め、ただのお参りマシーンとなり、自分のお参りが済むと、早々に会場の外にでた。転げ回って笑いたいくらいのはずだが、臨界点を超えた私の頭は、外の新鮮な空気に癒されたようだ。実際。呼吸を止めていたんだけど・・・・。2度3度と、大きく深呼吸して、私は冷静に戻った。空気というのは、こんなにも美味しいものだったのか・・・。幸い(?)な事に、笑いをガマンしてたので、涙もチョチョ切れ気味である。
何事もなかったように、WCに行き、何食わぬ顔で会場に戻った。私の愚行がバレたかどうかは定かではないが、よく見ると、皆それほど悲しげな様子もない。そもそも97歳まで生きたのだから、大往生であろう。
初めて、身内が欠けたにも関わらず、私は冷静であった。その数年後、父方の祖母亡くなったが、これと言った話題もなく、終了した気がする。順番からすれば、今度は母方の祖父母である。これは、ある意味では両親より身近なので、私はどうなるか自信がない。こちらの私は初孫であるが、外孫であるので、控えめにしていようとは思ってる。
つまるところ、こういう事って、物理的な距離も否定できないが、精神的な距離の問題である。完全な他人でも、自分と関わり合いの深かった人の方が情もわくものだろう。
もう母方の祖父母も90歳なので、カウントダウンが始まっていると思うから、亡くなってからより、生きてる現在を、できるだけの事はしてあげようと思っている。ところで、今回のオチだが、最後に私に襲い掛かったくるぶし丸見えのズボンのオーナーは、私の父であった(笑)。
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