お彼岸に、想う・・・。

 今はお彼岸だが、お盆に祖母を豊橋のお墓参りに連れて行った、しかし、ヘ理屈のようだが、お盆はご先祖様が自宅に帰ってるので、お墓は留守なのだ・・・。まあ、いいけどね。祖母も自分達兄弟4人で建てた墓だし、もう兄弟も亡くなってるからね。特別な思い入れもあるだろうしね。

 それにしても、祖母はともかく、私のまわりには実に信心深い人がいたのだ。祖母はどうやら、祖父と結婚しても戦争等の関係で宿無しだったらしい、どういう訳なのか、祖父の在所の近くに間借をさせてくれる家があったらしく、そこの牛小屋だか馬小屋だかで寝起きしてたようだ。母とすぐ下の叔父はそこで生まれたらしい。

 大家さんは、すぐ隣の母屋なのだが、そこの奥さん(Hさん)には男の子が2人いるのだが、女の子はいないのだ、いや、正確に言うと女の子がいたらしいのだが亡くしてしまったらしい(この時代には、ワリとこういう事があったらしい)。それでなくても、浪花節のHさんだから、私の母を実の娘のように可愛がってくれたらしい、ちなみに彼女は自分のメイの1人も5年近く寝泊りさせて面倒を見たらしいのだ。

 すぐ下の弟が未熟児で産まれて「保育園までもたないだろう。」と言われる程、弱かったので祖母は付きっきりだったらしく、寂しい母は母屋に入り浸りだったらしい。この時。医者にサジを投げられた祖父母は占い師(?)に相談したところ、「井戸に釘がささっとるから抜きなさい。」と言われ、調べたらホントに釘が刺さってて、引っこ抜いたら、峠を越えたらしい。そのせいか、どうか、その叔父は健在どころか、一番長生きしそうな感じである。「ヒョロ100年」と言うが、ホントにそんな感じだ。

 さて母だが、母屋のHさんや、そこの家のお兄さん2人とHさんのメイと、実の兄弟よりよっぽど本音で仲良く暮していたようだ、今だにね。
晩年のHさんも「○○子(メイ)と○ちゃん(私の母)は自分の娘のような気がしてならん。」と私によく言ったもんだ。

 そんなHさんのちょっと良い話だが、祖父母がせめて家賃でも・・・、と思いなけなしの10円を払ったら「銭、金じゃない。」と言って、受け取らなかったらしい。
それでも渡したら、母屋に遊びに行った母の上着のポケットに10円が入ってたそうだ。私もこの話を聞いたら、泣けてきたので、機会があると、Hさんのお墓には行くようにしてる。
とにかくお釈迦様の信仰者で、私にも「壁に穴をあける時は壁にお参りしろ、お前も手に画鋲刺されたら、いてーだろ。」とシンプルな事を言った。そのせいか私は今だに、壁に画鋲には抵抗がある。
そして、私が小学の頃。その家に行くと、彼女はお菓子でもお茶でもなく、何故か産みたての卵で「卵かけ御飯」をだしてくれるのだ。美味しいからいいけど、何か違うよね。母やメイもかつては同じように「玉子焼き」の接待を受けたらしい。彼女なりの精一杯の愛情だったのだろうね、けっこう山手だし車もないからお菓子なんて買いにいけなかっただろうから。

 もう一人は、祖母の兄嫁さん(Cさん)だが、この人は祖母が嫁に行って半世紀も経過し、とっくに両親共亡くなっているのに、たびたび遊びに行く祖母と私をとても優しく迎えてくれたのだ。自分のダンナさんの妹の孫なんて、全然関係ないのにずいぶん可愛がってもらったものだ。
とにかく祖母の実家は接待好きらしく、必ず食事は寿司で、帰りにお小遣い、とにかくタダでは帰さないらしく、私の母の代からポケットにアメだったらしい。Cさんは、とにかくいつでも笑顔で、怒る事のない人だったと思う。彼女の子供3人も口をそろえてそういうのだから間違いないだろう。頭脳も明晰で、とにかく来客をあきさせないし、どんな話にも合わせれる人だったと思う。私の母は「オバさんを見習わなくちゃ。」と昔からよく言うが、どこをどう見習ったら、現在の母の人格が形成されるのか、私にとっては数年来の大謎である。
 
Cさんもまた、ご先祖さんを大事にする人であった。「人には尽くしなさい、それがいつかは私じゃなくても誰かに返ってくる、それで皆が幸せになれる。」と言ってたのを近頃よく思いだす、残念ながらものすごく苦しい死に方になってしまったが、それでも御自分の子供や親族にこれ以上ない看護を受けて、幸せに逝かれたと思う。

 私には、とてもHさんやCさんの真似は出来そうにない、できる事なら人に手間をかけずに、眠るように逝きたいものだ。それでも、今の私は自分なりの考えもあって、お墓には行くようにしてる。お参りしても、この世に還ってくるわけではないけど、せめて安らかに眠ってもらいたいものだ。ちなみにHさんは「午後3時すぎにお墓に行っちゃいかん、ついてくるから。」とよく言ってた。私はなんとなく気になって、行かないようにはしてるけどね。

 
 

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