裸電球の記憶。
今は12月も、もうすぐ終わろうとしてる頃だ、。私の子供の頃の床屋というのは、モーレツに忙しかった。寝ても覚めても、お客様だった。今、時代が変わり、平成のこの世では、全然そんな事ないのだけどね。そもそも私が見習いをしてた10年ほど前ですら、大晦日は昼まで営業して、大掃除して解散だったのだ。
あの頃・・・私は母の在所の敷地内に住んでたのだ。あまり外に出て遊ぶ子ではなかったけど、逆に面倒を見てくれた人(主に祖父母)からすると、楽だったらしい。
私は理容と美容の部屋が別々だったので、いつも理容の待合でマンガを読んでた。普段でも夕食の時間になると、祖母が呼びに来てくれたのだ。しかし12月の理美容はそういう訳にはいかない。祖父母があの手この手で、私を店から離すのだった。
特に祖父は、私の事を可愛がってくれてたらしいので、事務所なる部屋にいる事が多かった。祖父母が私を可愛がるので、当時中学生だった叔母がヤキモチを焼くといった馬鹿げた事もたびたびあったらしい。祖父は私に窓を一緒に拭かせたのだ、未だにガラスクリンビューを見ると、それを思い出す。私は実に丁寧に細かく窓を拭いたらしく、それを見た祖父が気に入って、そこらじゅうの窓を拭かせたのだ。多分私もおだてられて、調子に乗って、やっていたと思う。私の几帳面と言われる性格は、この頃からかもしれない。
さらに祖父とはお店のタオルの洗濯も一緒にやったのでした。当時は裏の小屋に洗濯機が4〜5台あったので、ほぼフル回転でした。もの干しに手は届かないが、タオルをパン!と伸ばすのはできたので、そればかりやってた気がします
。これもマメに伸ばして、揃えてあったので、祖父は私をほめたたえて、私も調子に乗り、早く洗濯機が止まらないかなあ、と待っていたものだった。洗濯機が回ってる間は、チョークで落書きしたり、洗濯ハサミで飛行機を作ってたりして時間をつぶしました。翌日にはお店のスタッフがそれを、壊してもの干しに使ってたので、ショックだった。当時ガッチャマンの「ゴッドフェニックス」を作ったつもりだったのだけど・・・。でも、これはスタッフが正しいですね。
さてタイトルの裸電球は、夕方から始まるのです。だんだん暗くなり、外灯が灯る頃、裏の洗濯小屋も、電気が付くのですが、細長い構造なので、一番奥の洗濯機だけは、裸電球なのです。そして、これがまた怖い!!
当時の私は、「まんが日本昔ばなし」の「3まいのおふだ。」にでてくる山姥に恐怖のどん底へ突き落とされてたので、今にも奥の洗濯機の横から山姥がでてきそうな気がしたのでした。裸電球のボンヤリした灯りというのは、もの寂しさや孤独感を演出するには、あまりにもピッタリなのでした。
時々店からでてくるスタッフが心の救いであった。5時になると、祖母が御飯に呼びに来るので、それでゲームオーバーなのですが。何しろ怖かった。もう思い出も黄ばみかけた懐かしい話なのです。
蛇足だけど、大晦日は近くのうどん屋さんで、ザルソバをスタッフの数だけ頼むというイキな計らいをしてました。でも、段々スタッフも減り、私が中学生の頃には私の友達にあまったザルソバを食べてもらう事もありました。これは今でも、この時期に皆が集まると、この話がでます。さらに時は流れ、スタッフがますます減り、ザルソバがカップどんべえに変わり、いつしかこういう習慣もなくなりました。今、年越しソバを食べると、フッとそんな事を思い出します。2度とは戻らない幼い
頃のメモリーです。(完)
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