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三河うどん

手打ちイメージ

 愛知県の三河地方(現在の岡崎,刈谷,安城,西尾,蒲郡,豊川,豊橋各市一帯)では,昔から地元でとれる良質の小麦粉を使ったうどんが各家庭で作られていました。

 現在の刈谷市今川町は,かつて芋川といわれ,江戸末期に出た参河志(みかわし)第拾巻に芋川饂飩−道中一番うどんの名物也海道にしてはしかりいまだ繁花の地にいづる麺類不及。−と出ています。

また,豊橋市の隣にある小坂井町は江戸末期に「小坂井村の茶屋は饂飩を名物にしていたのでうどん町」とも呼ばれていたといいます(蕎麦史考)。

 今日,三河地方一帯のうどん店の代表メニューである,にかけうどんにしても,江戸中期には「『かたゐ袋』に,しなのヽ国ににかけというあつものあり。小麦蕎麦などにいろいろのせあはせしてたうびぬ。」(蕎麦史考)と出ています。

 十六世紀後半には,徳川家康が三河から江戸へ入府しました。この時,三河以来の供衆を関東周辺に妻子と共に配置させています。すでに三河では,うどんが庶民に食べられていたはずだから,その技術が関東にもたらされたと考えてもおかしくはないでしょう。

 江戸時代前期には,江戸にうどん屋がたくさんあったといわれています。やがて,江戸中期になると,蕎麦がもてはやされ,うどんは主役の座を開け渡してしまいます。そのため,うどんは中部,関西を中心に残ってゆき,三河にも地元の人たちの日常食としてのうどんが継承されていきます。だが,「三河うどん」は,主役を蕎麦に奪われたといっても,江戸のそばうどん店に,庶民の間に根強く残っていました。

 そして今日,「三河うどん」の流れは,東京のうどんとして全国各地へ伝播しています。




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