今年の撮影メモ
久能山東照宮          1/1
推古天皇時(頃)久能忠仁による補陀楽山久能寺の真言宗寺院であった。武田信玄の時代には久能山城としてつかわれ、元和2年(1616)4月17日家康の遺言により廟所(墓は西向)をもうけ翌年東照宮が造営された
臼杵の磨崖仏(国宝)  1/16
数多くある臼杵の石仏群の中でも写真の中尊の大日如来像は一番に絶賛を受けている、そのほか国東半島(大分県)には熊野磨崖仏など多くの石仏がみられる。制作年代は奈良時代とも鎌倉時代ともいわれている、いずれも素朴な暖かいまなざしをしたお姿です
当麻寺とバラ           2/5
藤原家の名家と生まれた中将姫は17歳から29歳の成仏されるまでこの寺にて修行された、それまで継母との折り合いが悪く日々が苦難の連続であったという。江戸時代「中将姫物語」として、芝居、謡曲、浄瑠璃などで大衆に広くもてはやされ、女性たちの亀鑑とされた。その様子が真冬に咲くバラの花が良く似合う。うしろに東塔、西塔の三重塔が見える、天平、平安初期の建造で、国宝に指定されている。
天恩寺と足利義満
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徳川家康公の生誕地で知られる岡崎市の隣に位置する額田町に臨済宗・天恩寺があります。貞治元年(1362)足利尊氏の遺命で建立された、伝として尊氏が矢作川合戦に敗れこの地に逃れた折り、一夜観世音菩薩があらわれ「勝利を得た暁には報恩のためこの地に寺を奉ると祈念した」結果、翌日勝利を収めた、これにより義満が遺命を奉じて建立され寺名もまた天恩寺とされた。写真は仏殿(地蔵堂)国重文指定

八王子神社の古鳥居
郷土の蒲郡市(愛知県)に八王子神社(西浦町)があります、その鳥居には「宝永3年(1706)」に「当国土浦城主侍従源朝臣土屋政直臣藤原姓早川源右衛門尉貞恒造立」の刻印があります。この三河国と土浦藩の早川氏とどういった関係があったのか?
これまでに不明でしたが、土浦博物館からの連絡でわかりました。要点だけ書きますと、土浦藩の藩士録によって早川家の初代早川半兵衛のところに「本国三河」とあり、その半兵衛の祖父が信玄の父信虎に仕えていた。土屋家も早川家と同じく甲州武田氏の古くからの家老であった。八王子神社近くにて武田勝頼の末裔で西浦の有力者である医師入戸野氏との関係で鳥居を寄進した。 武田家の旧臣たちの、
入戸野(武田勝頼家系)→早川(本籍三河国)→土屋(武田家家老)のラインが判明したのです。此の鳥居の刻印の意味が分かりました。

写真をクリックしますと拡大
します、右の墓石の写真を拡大しますと、「天庵」の文字が見えます

崇心寺(そうしんじ・蒲郡市)にもある小田天庵の墓
浄土宗西山深草派に属し永禄7年の創建と伝えられている。一時期この寺に小田天庵の後裔とする住職が勤めて寺の面目を一新したといういわれがあります。その関係で天庵の墓が在ると思われますが、一説では天庵がこの地で亡くなったのでは?    
 さてここで土浦町内誌によれば『小田城主天庵氏治は天正11年(1583)に佐竹義重氏に降伏、家康の関東移封にともない結城秀康が土浦城主となった、秀康はその後関ヶ原の合戦の功により67万石の北の庄(福井)に転封した、その時、小田城最後の天庵氏治は秀康の客分として300石を与えられ同行し、慶長6年(1601)に71歳で北の庄で没し、永平寺に葬むられた』とあります。これが真説といえます...実は天庵は蒲郡に来なかったのです。

平成13年12月15日中日新聞の記事に「蔵王山から田原町寺山氏の富士山撮影」のテーマで載っておりました。
田原町蔵王山(250m)山頂の展望台から、東に約160km離れた富士山を撮影したというものです。
小生の住む蒲郡から昨年海抜0mの海上から富士山を撮影(左の写真)した鈴木昭次さんがおります、やはり時期的、撮影時間も同じ様な条件でした。晩秋の早朝で雲一つないことが必須です。
そのチャンスは年に1,2度有るか無いかといわれています。しかも新聞記事の蔵王山と違ってかなり条件が厳しい、例えば海水の水蒸気や低地からの撮影となればなおさらです。
その3年かけて撮影した努力談には頭が下がります
蒲郡竹島からの富士山