文  集








木の実ナナさんが舞台に出る前に「今日もよろしくお願いします」と拝んでいるのがこの阿国像です。トップハットにえんび服を着た姿を感動するには訳がありますという「日本最初のショーガールで、当時のダンシングクイーン。舞台に立つ人間として尊敬します」という。これは「ときめき歴史散歩」の一文です。
私は1月29日『歴史を彩った女性たち展』のなかにこの像を見つけました。木の実ナナさんの顔が重なって印象が深かったので・・・・・・・・






愛知県の東部、御津町と音羽町との境にある宮路山(標高362b)の頂上に持統女帝がおみえになったことを記念した石碑(写真参考)があります。さて、女帝がどうして宮路山に来られたのか?私には今までその理由がわかりません。
いずれにしても58歳の高齢と季節が旧暦の10月だから現代でいえば11月のなかばで、いずれも厳しい条件のもとです。来駕の理由が色々と伝えられています。壬申の乱のおり、女帝の子、草壁王子が御津町に居られ軍勢を催したことに関連して来られた、また、相当長期間であったことから民情視察では・・・・・といった具合です。
最近、黒岩重吾「天風の彩王」に「大宝2年の7月、女帝は吉野宮で駿河行き、不二山(富士山)を仰ぐ夢を見た、噂の不二山は日本人の最高の霊山といわれ、女帝はその夢の実現の為に駿河に向かわれる途中、尾張で風邪を召されたがそのまま三河に向かわれ着いた途端に発熱されそのまま暫くとどまったが女帝は念願の不二山を見ることなく都に戻られた」とあります、私はこれが真意と感じました。






Matudaira.Sadanobu 21世紀最初の参議院選挙で圧勝した小泉政権は異状といえます、その模様は丁度200有余年前の松平定信が老中首座に就任したのとよく似ている。
天明7年賄賂政治で腐敗しきった田沼意次政権にかわっての登場です、民衆や心ある幕臣たちは定信政権の到来を歓呼して迎えた。
しかし、定信が厳しい倹約令を強いたため、民衆が音を上げわずか数年で定信の改革は挫折してしまった。
今回の小泉政権も選挙戦を終えると同時に、同じ自民党内で小泉首相の改革に対する批判が出ている。
株価の低迷、失業率の増加、アジア各国からの教科書問題などに対する批判等々・・・この後は定信政権の轍を踏むような気がしてならない。













本能寺の変の裏に旧勢力が暗躍する
時代が進むにつれて色々な事実が浮かび上がってきます、例えば第2次世界大戦の結末、昭和20年7月24日ボッタム宣言後における日本国が連合国に対する駆け引きの実態が明るみに出て参りました。今になって考えると「なぜその時に連合国にはっきりした態度を示さなかったのか、なぜソ聯に仲介を期待したのか」といったことが悔やまれます。
本能寺の変についても明智光秀の怨恨説が歴史教科書などに取り上げられて、なかば事実として信じられてきました。本日(平成13年8月14日)の中日に「信長に追放された室町幕府最後の将軍足利義昭がクーデター計画の中心にいた」という説を藤田三重大学助教授(近世史)が発表しました、それ以外に作家の安部龍太郎氏も同じく「信長燃ゆ」のなかで公家の中心人物近衛前久を中核とするクーデター計画があったとしています。いずれにしもそうした旧勢力の暗躍が変を起こした要因といえます。







一見のどかな竹島風景ですが今から650年前に私が立っているこの場所(蒲郡プリンスホテル)で南北朝時代に合戦が静岡県史などの資料で改めて確認されたことが「広報がまごおり」に載っておりました。
断片的な資料ですから今のところ確定は出来ていません、ただ言えることは遠江国犬居城主・天野左京亮直景が足利2代将軍足利義詮から竹島合戦の功績により感状をもらった事実があることから、ここに合戦があった認識があります。犬居城には後醍醐天皇第四皇子宗良親王の井伊谷宮の関係で南朝方、そして一方の相手方鵜殿氏も南朝方、また鵜殿氏がその当時の当主がどれだけの勢力があったのか不明です。
まだ解明するのには時間がかかりそうです、風景は依然として沈黙を続けて波静かです。











徳本上人は、宝暦8年(1758)6月に紀州日高郡で生まれた。少年時代から、慈悲が深く、弱いものを見ると助けずにはおれない優しい子であった。四歳の時に、隣の家の子が死に、世の無常を悟ったというから、宗教的には早熟であった。実家は貧しい農家で、坊さんになることを許されなかった。三十歳の手前で、浄土宗の僧として出家した。名号の南無阿弥陀仏を暇さえあれば唱え、身なりや財産に無頓着であった。
十八歳以降は常に坐し名号を励み、横になって休むことはなかった。文政元年(1818)六十歳の時、自ら臨終間近きを知りながらも横に伏せず坐して高声にて念仏を唱えて寂したといわれます。
蒲郡市内には形原・利生院、竹谷町・庚申堂、豊岡町・真牧寺の三ヶ寺(いずれも浄土宗西山派)に名号碑があります。

















聖徳太子の謎にせまる
 歴史には陽の当たる部分と陰の部分があります。多くの謎に包まれた聖徳太子像はまさにこの典型といえます。私は以前から摂政になりながら太子は大王になれなかったのか?不可解でした。その謎がおぼろげながら解けたような気がします。・・・・・というのは、歴史街道(2001・12月号)関祐二氏の「架空?暗殺?怨霊?不可解な謎を解くカギは?」の論文です。
 その論文を読んで推理と独断で「七世紀の真の実力者がいったい誰だったのか、を想定すれば聖徳太子への実像がはっきりするのではあるまいか・・・・・」と想像しました。
 その正体は蘇我氏であったろう。しかし、蘇我氏を滅ぼして政権を手に入れたのは中臣氏であった。 将来の藤原氏への布石づくりに太子も蘇我氏も利用されたのであるまいか?そのため最終的には太子一族の上宮王家と蘇我氏が抹殺となった。
 その課程で推古女帝と馬子によって太子の大王への路は閉ざされたといえます。その両家の怨霊を鎮めるために藤原不比等らによって「日本書紀」に太子の聖人化がはかられたと思えます。
 聖人化された太子が陽の当たる部分として知られているのです。

児島高徳像     岡山県津山市 児島高徳コジマタカノリ
「天莫空勾践 時非無范蠡」

※天テン勾践コウセンを空しゅうするなかれ、時に范蠡ハンレイ無きにしもあらず
鎌倉時代の末期元弘2年(1332)、児島高徳は隠岐へ流される途中の後醍醐天皇を奪回しようと其の跡を追ったが果たせず、せめて天皇に其の志を伝えようと天皇の宿所に忍び込んで庭の桜樹の幹を削って中国越王勾践(エツオウコウセン)の故事にならって 十字の詩を書いた
この詩は、紀元前五世紀のころ、中国で呉ゴと越エツとが戦ったおり越王の勾践が大敗して捕らえられてしまった
しかし、家来の范蠡の助けを受けて呉を滅ぼした故事にちなんで高徳が桜の樹に書いて天皇を励ましたのです