私の趣味
日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と蜂須賀小六との出会い
豊臣秀吉と蜂須賀小六との出会いの矢作橋上の場面を描いた図(八丁味噌のパンフレット)ですが、私ども子供の頃の教科書にも載っていた有名な秀吉と蜂須賀の出会いの場面です ・・・・・・「信長公記」「太閤記」といった後世の人が英雄を美化するために書かれたのが戦国時代の史実としてきました、昭和34年伊勢湾台風のおり前野家の土塀から前野家の祖先から伝わってきた「武功夜話」が発見され、380年振りにその実態が分かりました
最初天文・弘治の頃から織田信長は生駒屋敷(現在の江南市)に姿を見せていた、その屋敷の住人である吉乃未亡人を室として迎えたのです
一方蜂須賀小六は木曽川の川並衆として生駒家に出入りしていた、その当時(弘治元年)秀吉は蜂須賀小六の輩下になっており生まれつき奇妙な風態と機知にとんだ弁舌で吉乃の方に取り入り、信長の下僕として二の丸で仕官したのが出世の糸口でした
こうした信長・蜂須賀・秀吉のコンビは組まれたのです
仏教伝来の地(海石榴市ツバイチ)
六世紀に瀬戸内海から大和川をさかのぼり、この湊を通じて
「山の辺の道」を交易の中心として飛鳥の宮、斑鳩の里に、
いろいろな文化や仏教が我が国に伝えられた。私は遣隋使
として派遣された小野妹子の思いを偲び感慨の深いものが
ありました。石碑は東大寺管長の揮毫による「仏教伝来の地」
の字が光る。
              00/11/9
大日本仏法最初四天王寺
六世紀のはじめに仏教が日本に伝わってきた、それを支持する聖徳太子と古来からの神を推す排仏派物部氏との間に戦が行われた。結局崇仏派の太子が勝利しこの四天王寺が創建された。太子16歳の頃とされている。こんにちまでの千五百年の間災害や戦災にあって昔日の面影はない。ただ歴史上の伝説だけが「大日本仏法最初」の石碑として生き続けている寺院です。
左上の銅板の額「釈迦如来 転法輪所 極楽浄土 東門中心」とある。
その意味は、「お釈迦さんが説法を説くところであり、ここが極楽の東門の中心である」 という。            00/12/23

参考写真
興福寺「阿修羅像」
この像について、司馬遼太郎「街道を往く 近江・奈良散策」の文を参考にする。
興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年とも見える清らかな顔に、無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情が浮かべられている。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心許なさが腰から下のはかなさに漂っている。眉のひそめかたは、自我に苦しみつつも、聖なるものを感じてしまった心のとまどいを表している、すでに
かれ---あるいは彼女---は合掌しているのである。
何ともいえない魅力を感じさせられる、これを造仏した天平の仏師には、どんなモデルが居ただろうか----。
私はこの美しさに圧倒されそれからは仏像の魅力に惹かれてしまった。  
99/11/14
霊場めぐりの新聞記事
平成16年10月5日中日新聞の東三河版の記事に載り載りました
「保内西国三十三観音霊場めぐり」についてです。保内西国とは旧西ノ郡松平家の領域で旧蒲郡町・三谷町(愛知県蒲郡市内)のことを指します、そこに元禄時代に民衆の信仰をあつめた三十三観音霊場をまわった時の記録です。
もう現在の人たちには忘れ去られた保内西国三十三観音霊場を遠い昔の先祖様の歩いた道をたどってみるのも意義が有ろうかと思い記事にしました。  04/10/20
i委空寺の観音像

委空寺の観音坐像   中国伝来
委空寺の観音像
私の町内に無住の委空寺というお寺があり、町内で管理している。その庫裏に一寸立派な鋳造仏があります。博物館員の鑑定では余りよい結果が得られません、しかし私は絶対価値のあるものと信じています。
まづこの仏像には年号があります、明国歴で嘉靖17年(西暦1538)4月13日とあります。日本では、室町幕府がほろんで織田信長の時代です。そして仏師の名前も彫られています、宗禄・宗宝とあります、宗家は中国では青銅製仏師では一人者です。
まず台座、宝冠は日本の仏像には見られない特有なものがあります。
合掌印も特有です。稀少的価値を持っています。
面相は柔和なお顔をしています。
             99/11/20